カフェで店員さんが顔を覚えてくれているという幻想

カフェに行った時に店員さんが顔を覚えてくれていて、またこれでしょ?と聞いてくれると嬉しい気持ちになったりする。

だが、実はただカメラで顔認識されていて、店員さんの手元端末に「この人は前回○月○日にこの商品を注文しました」と表示されている可能性も否定できない👁

(このようなシステムは既にあるようだ)

どうでも良いことだったのだが、考えてみるとなかなか奥が深い。

嬉しさの源泉は何か?

そもそも、なぜ店員さんが覚えてくれていたら嬉しいのだろうか。

もし機械に判定されたデータを店員さんが活用して提案してくれていたとしたら、嬉しくないのだろうか?

機械の判定は嬉しくない気がする。だが、機械が使われていたとしてもこちらが気づかなければ嬉しさを感じられる、という気もする。

人間が覚えていても、機械が顔認識していたとしても、結果として得られる「提案」は同じなはずだ。情報源が機械だったとしても、店員さんは演技可能であるし、意図的にたまに間違えることすら出来るのだから。

それでも差があるのだとしたら、店員さんの大脳皮質の微々たる領域を自分のデータが専有したことに対する喜びということになる。コンピューターのストレージを専有する喜びは小さいが、人間の脳を専有する喜びは大きい、ということなのだろうか。

このような技術が様々な場所で使われるにつれて、「常連」「顔なじみ」という言葉は単純な接触回数などで計算されるようになり、このような喜びを感じる機械は減っていくのかもしれない。

AIによって置き換え不可能な仕事の例としてバーとかスナック等があげられていて、それ自体にはとても共感するのだが、人間味のある行動が本当に人間の行動なのか分からなくなった先でも同様に考えていられるかは予測不可能だ。

現在の感覚で10年後を予想しようとしても、その過程で思考方法も刻々と変化していくので、10年後に同じ状況を同じように認識出来るかは別の話だということだ。変化は複利で起きるのだ。

利便性とプライバシー

視点をずらして、プライバシーについて考えてみる。

既に、検索エンジンやECサイトなどで多くの情報がパーソナライズされ、自分に必要な情報が出てくる時代だ。実際のところ、個々人が誰かということはどうでもよくて、人間1, 人間2, … に対してデータを作っているだけだ。

ただ、不特定多数に対する顔認識の場合は、意図せずとも社会的な人格と顔データがどうしても紐付いてしまう。顔は基本的には変えられないからだ。

少し考えてみると、将来的には「安全のため」の監視カメラは増えるはずで、意図しているかどうかによらず結果的には監視可能な社会が構築されるだろうことは予想できる。その時は、日本だけでなく世界中が似たような感じになっているはずだ。

なぜなら、データ量がものすごい勢いで増える現代の情報化社会で「記録映像データだけが蓄積されない」という不自然な状況は考えにくいからだ。

これは悪いことなのだろうか?

話を戻して考えると、元々は店員さんが顔を覚えていてくれると嬉しいのか?という話であった。もし不特定多数に対する顔認識が悪いとなった場合、じゃあ店員さんが顧客の顔を覚えるのは悪いのか、ということになる。それは何も悪くないように思える。

しかし、人間の脳で認識した顔データが外部に取り出される時代がそのうち来るだろうし、最近の映像技術を見れば監視カメラに映った映像が本当に現実の映像だと証明することはますます難しくなっていくはずだ。

現在の技術では脳から取り出した情報を不特定多数にブロードキャストするなんて事はできないので、その2つは明らかに異なる。

しかし未来では、人間が覚えるのはOKで映像として残すのはNGという話すら議論に上がらなくなって、両方OKもしくは両方NGという議論になるはずだ。もちろん人間が覚えないようにすることなど不可能なわけだから、両方OKとなりそうだ。直感的には理解できないが、機械的に考えればそうなるはずだ。もっとも、人間が選択的な記憶を行えるようになっているかもしれないので、両方NGという世の中になっている可能性もあるのだが。

まとめ

機械による顔認識と店員さんの記憶はそのうち完全に区別がつかなくなる。今は温もりを感じる余地がありそうなので、素直に喜びを感じるのが最適解となりそうだ。

今はほとんど人がマスクを着用して歩く世界なので顔認識はしづらいかもしれないが、恐らく顔認識技術もマスクをつけていても精度が上がっていくだろうから、そのうち関係なくなると考えるのが妥当そうだ(スマートフォンロック解除でマスクを着用していても解除出来るようにするという話とは違う)。

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